りすたと!

リスタートするための第一歩。

グータララ~を歌わなかったケンジ『20世紀少年』共通記憶の確認とともに今を生きる

記憶が鮮明なうちに。
この作品をあえて一言で言うと――
新人類世代の共通記憶とともに20世紀の光と影をめぐる自己確認と今を生きる人々への応援歌――かな。

過去の浦沢直樹関連のテレビ番組を見ていると、本作はどうやら世間的には“ともだち”は誰か?っていう謎解きに焦点が当たったようですね。

(私は『20世紀少年』の話題を読了するまでことごとくシャットアウトしていたので、あまり深くは知らなかった)
もちろん、それだけではないですよね、この作品は。
思い出しながら、解釈したことを記してみたいと思います。

共通記憶

一読して思うのは、20世紀の出来事の多くが作中に象徴的に用いられていること。
これは言うまでもなく、その時代をリアルに過ごした浦沢の記憶の物語でしょう。
そして、それをいかに万人に共通するエンタテインメントに仕上げるか。

面白いのは、この手腕。
「浦沢一個人の記憶の物語」にとどめないこと。
この世代の大半の人々が奇跡的に共通して持っている「共通記憶」となって現れてくるところに本作の真髄があると思う。

10~20代の人はずいぶん過去の話だと思うだろうし、30代の人は少し前の、でも親しみのある懐かしい過去だと思う。
40~50代、テレビの内容(放送室の革命 浦沢直樹出演「ゴロウ・デラックス」 - お前の人生、今何章目?)を用いるなら小室哲哉とかそういう人たちの世代は、もはやあるあるネタ
ケンジたちの世代は1960年生まれの浦沢とドンピシャで、ちょうど新人類世代(1961~70年生まれ)に当たる。
誰もが万博に行きたがっていて、誰もが強いプロレスラーに憧れを抱き、誰もが駄菓子屋で欲しいものがあり、誰もが見果てぬ宇宙に思いを馳せた時代/世代。
「昨日のテレビ、面白かったよなぁ」と語り合える最後の世代。欲しいものが同じで、関心が同じで、クラスの話題が同じで。
おそらく大半の人々が持っている共通記憶が大枠で一致する最後の世代だと個人的には思っている。

私のようなアラフォー世代だと、ここまで強烈な憧憬をともなう共通認識はなかなかない。
自分の個人的な背景に当てはめてみると、例えば元上司の編集長や町山智浩といった映画オタク世代、ビデオではなくロードショーで映画を観た世代なのかな。
ひとまわり12年でここまで違うのかというくらいで、その熱量たるや若干の嫉妬にも似た憧れを感じる。

さらに下って今のケータイ世代に共通記憶はどこまであるのかな。
細分化・グローバル化は共通記憶を薄めているはずだから。

本作の柱は、浦沢が愛した音楽とマンガ。
基本的には浦沢の自伝的なもので、間違いないはないと思います。
題名にもなっているT-REXの「20th century boy」をはじめとする70年代ロック、ヒッピーカルチャー、愛と平和の音楽祭ウッドストック
そして、トキワ荘ならぬ常磐荘の漫画家集団や、オマージュされる70年~80年代のマンガへのリスペクト。

高度成長期の最中に開催された「人類の進歩と調和」の万博、月面着陸、NASAの技術、スプーン曲げ的超能力などの輝かしいあるいは未知なる科学・未来像。
一方でノストラダムスの大予言の終末思想であった。
いわば、20世紀の光と影。

救世主や聖母といったキリスト教的モチーフは見られるものの、あくまで終末思想的なギミックに過ぎない。
描きたいのは、20世紀のイベントの数々なんだと思う。
つまり、20世紀の記憶の再構築。
そのため、本作の主人公は当然ながらまぎれもなく、その時代を生きたケンジであり、大活躍のカンナはあくまでサブキャラでしかない。

少年漫画やテレビアニメの中で描かれる地球防衛軍やロボットの近未来的イメージは、ケンジたちが過ごした少年時代を映す空気だ。
しかし、ケンジが少年時代に思い描いた未来像は、やがてきな臭い出来事の数々でオーバーラップされていく。
学生運動(70年代)、オウム真理教の洗脳・バイオテロ(95年)、戦後(1945年以降)にループが返る場面もある。

本作の奇跡的なところは、ひとりの作家の記憶が、20世紀(高度成長期の日本)の陰と陽の共通記憶となって立ち上がっているところだと思う。

それは、陽のケンジと陰の“ともだち”に呼応し、2人は同じ少年時代を過ごしたということに深い感慨が押し寄せる。
少年時代の陽と陰の関係。

あやふやな記憶と認識できない自己

秘密基地、理科室の実験、夜の学校、近所の幽霊屋敷などの、新人類世代のあるあるネタをモチーフにしながら、各キャラクターはことあるごとに「過去の自分」と対峙する状況に置かれる。

ケンジたちの年齢設定は、大阪万博の1970年で小学校5年生なので、2000年では41~2歳、2015年では56~7歳くらいになる。
30~40年前のことなど、ほとんど記憶の彼方だ。
「過去の自分を知る」ことは、ストーリーを押し進めると同時に世界観の猫写に一役買う。
浦沢作品のストーリーテリングはとても映画的だけど、本作でも随処に遺憾なく発揮されていて、気持よく交錯するシチュエーションで全景が少しずつ見えてくる。

本作で引っ張りに引っ張ったのが“ともだち”の正体。
読者的にはまさにキモと捉えてもおかしくはない。お面、覆面、のっぺらぼう。『MONSTER』でも“顔のない写真”にどっきりさせられたけれど、これを質量ともに上回るミステリーで引っ張りまくる。

「奴は一体誰なのか?」「俺は一体(過去に)何をしたのか?」
さすがにここまで引っ張れば、「“ともだち”の正体は誰か?」に焦点が当たってしまうのも頷ける。

しかし、これはパク・チャヌク監督のオールド・ボーイ』的な「あやふやな記憶」の世界。
「思い出せない過去との対峙」にその焦点がある。
誰なのか(だったのか)?より、主人公の過去の行動に焦点がある。

過去の再体験装置

この作品には、秀逸な「装置」が登場する。それは、ケンジたちが生きた少年時代の風景を「再現した町」であり、“ともだち”の脳内を体験できる「シミュレーター」だ。
さすが「本格科学冒険漫画」と謳っているだけはある。このサブタイトルもいかにも60年代的な響きを持っている。

特にシミュレーターは小学生時代のケンジたちの日常をバーチャルかつ鮮明に体験できる装置で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』さながらのタイムスリップを可能にしている。

私は本作を、新人類を含む「今を生きる人への応援歌」だと感じます。
なりたくてもなれないもの、取り返せない/戻れない過去を思い出す。
過去の自分に対峙することで、今の自分を確認/再発見し、新たな一歩を進むことができるから。

うろたえる“ともだち”

“血の大晦日”の後、再び現れたケンジはどこか達観しているように見えます。
ケンジは、再会した“ともだち”に、「遊びは終わりにしよう」と言います。

普通、少年はいつの間にか成長し、遊びをしなくなる。
同様に、普通は、遊びを通じて自然と友達になる。「ともだちになってよ」とは言わない。
“ともだち”やその一派、洗脳された人々は、コミュニケーション不全な人ばかりです。

達観したケンジは「大人」を意味していると思います。
一方、“ともだち”はずっと少年時代を生きている。いつでもワッキャッキャな感じ。
そんな“ともだち”に向かって、ケンジは「遊びは終わりにしよう」と宣言する。
「ともだちになってよ」と同様に、“ともだち”でも伝わるように。
そして、“ともだち”はうろたえてしまう。

世界(外/大人の世界)を知らない“ともだち”は、自分の世界こそすべて。
“ともだち”側に付いた子供たち(陰の子供たち。秘密基地に加われなかった子供たち)の猫写から推測すると、おそらく陽の世界の住人だったケンジに憧れ・ライバル心・嫉妬心を持っていて、その作用で凶行(純粋な遊び心)に至ったのだと思われます。
そんな外界を知らない、ある意味で超純粋な子供の心から抜け出せない“ともだち”が、ケンジからそんな宣言をされてしまっては、寄りどころとしていた自分の世界が崩れてしまう。壊れてしまう。
少年時代との決別。過去との決別。成長のイニシエーション(通過儀礼)。

コミュニケーション不全に陥っている“ともだち”に、大人になったケンジは手を差し伸べている。
「大人」とは「コミュニケーションがとれる人」と置き換えても良いかもしれません。

思い出して、未来を変えたケンジ

ケンジほど、この世の中の出来事を複雑に感じていた人物はいないでしょう。
子供時代の空想が現実になって、多くの人々が犠牲になるのだから。

終盤。シミュレーターで過去に突入したケンジがたどり着いた中学校の屋上。
そこで、2代目“ともだち”と思しきお面の少年が自殺しようとしていたまさにその時、ケンジが放送室で起こした革命、「20th century boy」が校内に流れてくる。
それを聞いたお面の少年は動きを止め、自殺を思いとどまる。

少年時代の「陽と陰の関係」を思えば、(革命を起こしたケンジに対抗してなのかは分からないけれど、)お面の少年も革命を起こしたいと思ったのかもしれない。
もしかすると、ケンジが曲を流したために、2代目“ともだち”の闇の心を動かすキッカケになったのかもしれない。
死ぬ覚悟を持った人間が闇に落ちてしまうというのは説明するまでもないでしょう。

なぜ“ともだち”が闇に落ちたのか」という直接的・具体的な猫写は曖昧というか結構ぼやかされているので、確信めいた証拠はないけれど、ひとつの解釈としては面白いと思う。
“ともだち”一派の子供にはいじめを受ける猫写や親が留守がちということを思わせるような猫写があるので、そういう心の隙が原因だと推測できます。

ケンジが2代目“ともだち”と対面した際は「誰だか分からない」人間だったけれど、『21世紀少年』ではシミュレーターで過去に戻り、思い出します。
タイムパラドックス的発想をすると、ここでケンジは未来を変えたのです。
血の大晦日は起こらずに済むよう未来を変えたのです。

2代目“ともだち”は自殺を止め、ケンジに「お前、○○○だろ?」と言われます。
つまり自分自身を認められます。
誰からも相手にされなかったであろう○○○は、どんな形であろうと自分自身を認められることは救いだったはずです。

その後はもはや想像というか希望でしかないですが、卑屈だった○○○は「20th century boy」をキッカケに知らなかった外の世界を歩み始め、自分に革命を起こした。そう願いたいと思います。

2代目“ともだち”の素顔

ニクイのは、2代目“ともだち”の顔は最後まで明かされなかったという点。
初代“ともだち”と瓜二つに整形したことで、本当の顔は分からずじまい。
屋上でケンジが指摘した名前は、ほんの一瞬しか登場しない(しかし引っ掛かりのある謎の)人物であるものの、確かな証拠はない。
これまたサスペンス映画さながらの終わり方で余韻を残しています。

この「素顔(正体)が分からない人物」は、誰の人生にもいる象徴的な人物として現れてくるところが素晴らしい。
だからこそ、素顔を伏せている猫写になっているのだと思います。

穿った見方をすれば、(少年時代に影響を与えた)ケンジの分身だったとも言えるし、実はケンジは二重人格だったっていうトンデモ話もできてしまう。
ちなみに、「マネのマネが最強」という万丈目の理論は、最終的にはオリジナルにかなうものはないという形に帰着する点は、やや論点とズレますかね。

グータララスーダララを歌わなかったケンジ

ウッドストックさながらの超満員の観客を前に、ケンジは求められていた曲を演奏しなかった。
私は「あれ?」と思いました。
観客と一緒に歌って大団円だと思っていた。

しかし反芻すると、これは何かあるとだんだん思うようになりました。
どんな解釈が可能だろう?
ここで22巻続いた『20世紀少年』が終わり、『21世紀少年』に続くことから、何らかの「ジ・エンド」を意味していると思われます。

(実際にはここで休載、半年間のリハビリを経て復帰だったらしい)
浦沢直樹「プロフェッショナル 仕事の流儀」を再見 - お前の人生、今何章目?

ページを少し戻してみると、直前でグータララスーダララの曲を“ともだち”に歌っていた。
ということは、あの歌は“ともだち”の死ぬ間際に歌ってあげた⇒鎮魂歌になった。それを観衆の前で披露するのはできなかった――と捉えると私は腑に落ちました。

さらに、本作に流れる「過去との対峙」「自己確認」「過去を省みた後の成長」を考えると、こんなことが思い浮かびます。
ケンジはもう過去を振り返りたくなかったのではないか。前を向きたかったのではないか。
いや、前を向かなければならないという強い意思があったのではないか。
だからこそ、超満員の観客の前であのグータララスーダララの曲を演奏することはできなかった。演奏してはいけなかった。

今を生きる。新しい一歩を踏み出す。そのためには過去を振り払う。
ケンジは観客に前に進んでほしいと思うのと同時に、自分自身のためにも演奏したはず。
ケンジ自身が一歩を踏み出すために。

自分の書いた「よげん書」のせいで“ともだち”が生まれ、多くの命が失われた。ケンジ自身も記憶を失い放浪し、心身ともに疲れ果てた。空白の15~18年余はあまりにも辛かったのではないか。
気づけば還暦。
ロックスターを夢見たケンジに残された時間を考えれば遅すぎた――と見るか。
ループが返って、新たな始まり――と見るか。
昔の曲。まったく売れなかった曲。平和だった時代には見向きもされなかった曲。

しかし時代が変わり混迷の中で、多くの人に支持された。
「なぜもっと早く気づいてくれなかったんだ!」という心の叫びが聞こえてくる。
時代がようやく着いてきた。時代を捉えるタイミングが違った。

こんなことは、人生でよくある話。
早く売れる人もいれば、晩成する人もいる。
花が咲く人もいれば、咲かない人もいる。
上手く行っている人もいれば、まだ上手く行っていない、いやマズイ状態だっていう人もいる。
そんなの全部ひっくるめて、これから新たに前に進もうぜ!っていう。

これまで過去にしてきた行いは決して間違いではない。
「夢は叶う」なんて言わない。だけど、「夢は叶う」かもしれない。希望は消えない。
これこそが、今を生きる我々への応援歌のように思えてならないのです。

“ともだち”の正体が誰かなんて大した問題ではない。
ケンジがグータララを歌わなかったことが最大のクライマックスです。

オールド・ボーイ コレクターズ・エディション [Blu-ray]

オールド・ボーイ コレクターズ・エディション [Blu-ray]